皆様いつもご覧頂きまして誠にありがとうございます。
昨日、マニラに住む友人から電話がってある御方の悲報を知って、あまりのショックに投稿をお休みさせて頂きました。
その友人は普段は決して人前で泣くような人ではないのですが、昨日だけは電話口で泣いていました。
その御方は優しい眼差しと話し方で周りの人々から愛され、そして誰よりも比国を愛した御方でした。
しかし、腎臓を患われて透析を受けなければならなくなってしまわれ、この比国での治療は難しいとの判断から、心優しい方々の支援を受けて治療に専念するため、泣く泣く帰国され最後にお会いしたのが2年前でした。
その後も、F Bで何度かやり取りはしていたのですが、余りにも突然の事にもうあの笑顔が見れないと思うと、、、、、62歳の若さでした、、、、。
故人の冥福を心からお祈り申し上げます。
「スケベ心と良心 完結編」
1970年代後半から1980年代が青春だった漢。
その頃は恋愛がレジャーだった時代である。
二十で田舎から上京した漢に東京という街は余りにも刺激的だった。
歌舞伎町で仕事を始め、仕事が終わると東亜会館の6階にあったB&Bに直行してダンスの練習と東京弁のマスターに明け暮れた。
その内に東京弁もマスターして東亜会館の他のディスコの黒服達とも仲良くなってカンタベリーハウス(ギリシャ館)やシンデレラ館も顔パスになってレディース上がりのスベ公や大久保あたりで美容師をやっている女、埼玉からやって来てきた准看護婦のグループの女達を手当たり次第にコマしていた。
そんな漢にとって次のステップは憧れの街「六本木」だった。
当時サーファー(丘)だった漢は聖地である「スクウェアビル」に初めて行ったが、驚いたのは、地下2階から地上10階まで全ての階がディスコだった事である。」
その全て覚えていないが3階が「ギゼ」、6階に「スタジオワン」、7階「チャクラマンダラ」、8階が「ネペンダ」だった。
中に入ると歌舞伎町辺りでは絶対に見ない浜(横浜)の「フクゾー」の服に身をまとい「ミハマ」の靴に「キタムラ」のバッグのハマトラファッションで決めたフェリスっぽい雰囲気のマブイ女達、サーファー系の女は、フレアージーンズやエンジェルスフライト、トップスは花柄のシャツに足元はミハマのウエッジを履いて髪はレイヤーカットに花のイヤリング付けて柑橘系のムスクの香りを放っていた。
あの頃は、音楽も最高だった。
ブラザーズ・ジョンソンのストンプ、コンファンクションのガットトゥービーイナフやレイパーカーJr&レイディオのパティーナウ、ジャーメインジャクソンのレッツゲットシリウス、ブロンディーのコールミーなど挙げればキリがない程素晴らしい曲がバンバン掛かっていて、今でもその音楽が流れると身体が自然とステップを踏んでいる。(笑)
六本木のディスコに入ると、興奮しながら「こいが本物の東京ばい」と心の中で呟いて、色男の友人にナンパして連れてきてもらったら、あとはこっちのもので口八丁で口説き倒してから、ラブホテルやアパートに連れ帰ってバッコンバッコンしていた。
あの頃、輝いていた女達は今頃、どうしているんだろう?
考えてみればあれから30年が経って、あの頃の輝きを失って普通のおばさんになっているのだろう。
あの頃、キラキラと輝きを放っていた漢も30年経って歳を取ったが、いまでは頭部に新しいピカピカな輝きを放つようになった。(血涙)
ここからが最終章、、、、、、、。
Yさんが恐れをなして娘達に美味しいモノを食べさせてと言ってチップを渡されたので17名~18名いた娘達は寝床へとゾロゾロと引き上げて行く中漢の担当の娘から手招きをされた。
Yさんに断ってから、当番の娘にコーラを頼んで隣の木製で出来たテーブルと長椅子に並んで座って少しだけ話をした。
長椅子に座るなり娘から「もう帰るの?」と聞かれた漢は「ゲストが一緒だから帰らなきゃ」と答えるとブスっとした顔しながら「長い間会っていなかったのに、、、。」と言いながら目に薄らと涙を浮かべて「もうすぐ私の誕生日なのに」と言いながら寂しそうな顔をするので不憫になった漢は「今度の誕生日に何が欲しい?」と聞くと娘は急に笑顔になって「一緒に映画を観に行きたい」と答えた。
それを聞いて「えっ、だってここは外に出してもらえないんじゃないの?」と聞くとオーナー(トンボイ)が漢だったら信用できるから大丈夫だと許可を貰っているらしく、嬉しそうに「いつ連れて行ってくれる?」と言われて返事に窮してしまった。(滝汗)
カバナ市内はメガセンターやパシフィックモールなどに映画館は数ヶ所あるが、漢は11年以上生活してそこそこ顔を覚えられているので他の娘を連れて歩いた日には、その日の内に彼女の耳に入る事となって彼女のプライドを大きく傷つけてしまう事を恐れた漢は「映画が見れるテレビとCDプレーヤーをプレゼントしてあげる」と思わず口にしてしまった。(汗)
娘は「アヤウ!(嫌だ)」と言って「私はデートがしたいの!」と食い下がってくるので焦った漢は「判ったから、取り敢えず来週又来るから」と立ち上がりながら返事すると「シノガリン!(嘘つき)」と言われて苦笑いしていつものチップを渡そうと財布を取り出していると立ち上がって「そんなお金なんかいらない!」と言いながらスタスタと寝床に帰ろうとするので娘に向かって「ハッピーバースディ~、イランタオンカナ?(いくつになったの)」と聞くと
背後を向いたまま大声で「セブンティーン!!」と言って寝床に戻って行ってしまった。
一瞬何を言っているのか判らなかった漢は後ろで一部始終を見ていたYさんに向かって「今最後に何て言っていました?」と確認するとYさんは笑いながら「セブンティーンと言ってましたよ」と教えてくれた。
今度は漢がヨロヨロになって長椅子にヘタレ込んで座って「今度17になるという事は今は16歳で最初に会ったのは今から3年くらい前なのでその話が本当だとすれば当時娘は13歳か14歳だったのか?」と考えると何とも言えない気持ちになって頭が真っ白になってしまった。
それは、漢が「ロクデナシひろし」から「ひとでなしヒロシ」になった事を意味した瞬間だった。
それから漢は子を持つ一人の人間として超えてはいけない線を越えてしまった事に罪悪感と自身に対する嫌悪感が全身を包みまともな思考が働かなくなってYさんに向かって「運転免許持たれていますか?」と聞くと日本の免許だけなら持っているという話だったので「責任は私が全て取りますから、右側通行で一本道なので運転して頂けませんか?」とお願いすると快く「いいですよ」と仰って頂き帰りはYさんの運転でカバナに戻る事となった。
Yさんが、帰りの道中で落ち込んでいる漢を見て「それは不可抗力ですよ」
と慰めてくれた。
午後6時過ぎにカバナに到着した我々はサンタローサやガパンの物件を見に行ったと口裏を合わせてザップスに入ると誰も居ない店内でYさんの彼女さんやお母さんやご兄妹の方3人と2人の子供と7人でソファー席に座ってジュースを飲みながら待っておられた。
挨拶をしてからYさんのお誘いを受けて皆さんとビールで乾杯して飲み始めて、その日は偶々バンドが練習をしていたので通常は8時からバンドが始まるのだが裏金を握らせて早めにスタートさせ皆さんに楽しんで頂いて10時過ぎに「また遊びに来ます」と挨拶されて帰って行かれた。
自分が未成年だった頃を別にして、成人してから初めて未成年と淫行をした事実を知ったその翌日は良心の呵責からか朝早く目覚めてしまった。
ロクデナシを自認する漢だがルールを持って遊んでいるつもりだった。
前日Yさんと初めてお会いした喫茶店の外でコーヒーを飲んでいる最中にキチンとした服装した富裕層の子供がいる中でモールの警備員が何度追い帰しても近付いてくる裸足の物もらいの子供達がいるが、その警備員の様子を見ていると本気で追い帰していないのが伝わってくる時がある。
その警備員は子供達の境遇を解っていて「助けてあげたいが自分にも生活があって助けてあげれない」という声が聞こえてきそうだ。
日本であれば親が逮捕され法によって裁かれるが残念だがこちらではどこでも見かける当たり前の風景だ。
そこの釣り堀にしても警察の交番のすぐ隣にある。
勿論、そこのオーナー(トンボイ)が袖の下を渡しているのだろうが田舎の警察はマニラなどの都会の警察と違って法外な要求をしないし、悪質な嫌がらせもない、そこで働く娘達の境遇を解って摘発しても誰も喜ばない事を知っているのだ。
そんな事を考えながら言い訳にして自分を正当化しようと試みたが、そんな事をしてもモヤモヤとした気持ちから脱せるとは思わないが何もせずにいられなくて、開店時間と同時にテレビとCDプレーヤーを買い求めるため急いでモールに行ったが、ご存知の様に財政状況が厳しかったのでとても新品には手が届かず、モールの2階にある中古のパソコンショップに行ってCDが見れる東芝製の中古パソコンと小さなスピーカーを買ってから、モスリムがやっている裏CDを一枚40ペソに値切って十数枚購入してから、その足で釣り堀へ向かった。(勿論、安全運転で、、。)
昼前に無事に到着したが、釣り堀には誰も居らず困った漢は裏手にある民家へ行って「タオポー、タオポー(誰かいませんか?)」と声を出すと店番をやっている娘の旦那と思われる男が出てきたので店番の娘を起こしてくれと頼んだ。
直ぐに起こしてくれ眠そうな顔して店番の娘が出てきてくれたので中古PCの入った袋を渡して娘に”誕生日おめでとう”と伝えて渡してくれとお願いして店番と旦那に僅かなお礼を渡してからカバナへ戻った。
話が少し逸れるが、実はこの店番をやっている娘にはある思い出がある。
以前カバナに住んでおられた70歳近くの邦人の方が居て、三十数歳の比国人の奥さんがおられ、13Aの結婚ビザを取得されて年金で生活をしながら住んでおられたのだが、夫婦仲が悪くなってカバナを離れられる事になった。
その場所は比国内だが飛行機で移動しなければならない場所で慣れない場所であったために漢も現地に赴いて、日本人が経営して日本人ばかりが住む家具付きのアパートを探してそこに落ち着く事となっていざ決行となった日にマニラで待ち合わせしたのだが、驚いた事に釣り堀の娘(店番)と一緒だったのだ。
驚いて「この娘、どうしたの?」と聞くと「トンドに住む娘の親に会いに行って話をつけて来た」、「一人で寂しいので連れて行く」との話に呆れたが本人達が好きで決めた事なので何も言わずに翌日飛行機に乗ってその場所へ行ってしまった。
その後も心配で米や日本食を持ってちょくちょくその場所へ出向いた。
しかし50歳以上も離れた年の差、言葉の壁、生活習慣の違いはいかんともし難く、喧嘩の度に電話が掛かって来て通訳を頼まれ仲裁に入ったがその関係は僅か2ヶ月余りで娘が家を飛び出す形で終焉を迎えた。
結局その娘は釣り堀に戻って元の仕事を始めてその釣り堀の近所に住む男と恋に落ち妊娠して子供を産んだが当然仕事もないのでそのまま夫婦で安月給だと思うが、釣り堀の受付と部屋の清掃係をやりながら、今でもそこに住んでいるのだ。
歳を取っていようがお金のある外国人と一緒であれば貧乏か脱出できると考えて付いて行ったが育った環境の差が違いすぎる上にまともなコミニュケーションすら出来ない関係が長続きする訳がないのだ。
この歳とった邦人の方もそうだったが、時々見かける日本人の中にも自分が日本で生まれ育ったという幸運を忘れて「貧富の格差」を「人間の格差」と勘違いして上から目線で比国の人達に接するバカタレを目にする事がある。
英語で「リスペクト」という言葉があるが、この言葉をピリピン人の人達はとても重要視していると感じる時がある。
日本語に直訳すると「尊敬」だが、日本人が感じる尊敬とは少し意味合いが違うと思っている。
男である以上「スケベ」は大いに結構だが、相手が誰であろうが自然体で同じ目線で接する事が重要で口に出さずとも「ご飯を食べさせてアゲテル」とか「金をハラッテイル(買っている)」等といった事が少しでも見えた瞬間に敏感に反応して顔を曇らせるのだ。
そんな人に限って「ピリピーナに騙された」、「ピリピン人は卑しい考えで金だけしか考えていない」などといながら、それでも比国にしがみついて吠えている人を散見するが、恐らくそんな人はどんな人種に拘わらず誰からも嫌われる人達なのだろう。
誠の日本人なら「非は己に有り」と考えるべきではないだろうか?
先程の話に戻るが、ここピリピンではマニラやアンヘレス等といった外国人を相手にする歓楽街以外にも、現地の人達を相手にする数多くの釣り堀(置屋)が存在している。
恵まれた環境に住む日本人であれば、そんな仕事をしている娘の借金を払って一時的には自由にしてあげる事は出来るかもしれない。
そんな事をしてもその娘の家族がより多くの借金をして深みに嵌めるだけで、自分を含めて周りを不幸にしてしまう結果になる事が多いと思う。
その意味で比国遊びに来られた際は、日本人として内在する良心を持って比国人の人達と接して、キレイに遊んで命の洗濯をされ、また日本へ戻ってストレス社会を生き抜く活力にして頂くのが一番だと思っている。
以上。
最後は少し説教じみた偉そうな話になってしまいましたが、私が申し上げたい事をご理解頂ける方だけに判って頂ければ幸いです。
大切な事はオカネやモノではなく人間としての「気持ち」だと思います。
あくまでも、その気持ちを伝える方法のひとつとして「お金」や「物」が存在しているのではないでしょうか?
日本では今でも「つまらないモノ(物)ですが、、。」と言ってお中元やお歳暮を渡す習慣が残っています。
そこには言葉だけでは表せない日頃の「感謝の気持ち」が込められた外国の人には理解が難しい日本人の心があります。
人の「真心」は「お金」や「物」では引っ張れないのです。
本日も最後までご覧頂きまして誠にありがとうございました。